「好き」「嫌い」はいつか慣れるもの
手書きを嫌う人はいるけれども……
「手書きの効果」の研究を進めていくと、決まって「手で字を書くのが嫌い。自分の字がきらい。手書きが優れていると思えない。」というように、手書きを嫌っている人にとって効果はあるのか?とツッコんでくるのだが、好き嫌いという基準で文化や教育を評価はできないはず。
好き嫌いはそれをやらなくてもいい理由になるのか?
同じように「声を出すのがきらい。自分の声がきらい」とか、「絵を描くのがきらい。上手く描けないから。」、「音読がきらい。つっかえるからきらい。」、「踊るのがきらい。自分の動きがきらい」、「歌うのがきらい。自分の歌がきらい」、「運動がきらい。いつも負けるのがきらい。」、「理科がきらい。理科なんて分からない」、「英語がきらい。英語しゃべっても上手く発音できないからきらい」という人に対して、「そうだね。じゃあ、声を出さなくてもいいよ。」「絵を描かなくてもいいよ。」「音読しなくてもいいよ。」「踊らなくてもいいよ。」「運動しなくてもいいよ。」「歌わなくてもいいよ。」「理科を勉強しなくてもいいよ。」「英語をしゃべらなくてもいいよ。」と言うのだろうか?
フィジカルで表現することは、根源的に楽しいことだと思う
そもそもどうして「字を書くのがきらい」となるのかを考えなければならない。手で平面に何かを描くということを覚えたとき、初めっから「絵を描くのがきらい」と思って、絵を描かない幼児はいるのだろうか?次第に字というものが世の中にあって、言葉を記録することができるということを知り、手で字を書き出したときに、「字を書くのがきらい」と思って、字を最初から書かない幼児がいるだろうか?
手で何かを描く(書く)(または、口から声を発する、身体で踊る……)ことを始めたとき、その「表現」の面白さ、楽しさに取り憑いて、やたらめったらどこでもかいていたはずだ。新聞広告の裏、カレンダー裏の白い部分、道や広場(今の子どもはそんなことしないか。)、挙げ句の果てには家の白い壁。書くことが楽しくってしょうがない時が必ずあったはずだ。
では、どうして嫌いになるのか?
ところが、人によっては、だんだん、手でかくことが嫌いになる人がいる。
原因として考えられるのは、「疲れる」ということがある。「疲れる」というのは、「疲れてもかかなければならない」「疲れたとしても止められない」という自分の表現活動意欲の外にある要因(シバリ)となる。幼児の時は疲れたら止める。しかし、「今日でてきた新しい漢字をノートに10回ずつ書いて提出しなさい。」となると、疲れても止められない。もっと大人になると、もっと多い字を期限までに提出しなければならなくなり、「止められない」となる。そりゃあ、漢字10回ずつだったら、1回漢字に変換して、9回コピペすれば、楽にノート(A4用紙?)に埋められる。つまり、歳を重ねるにつれて、嫌でも手書きをしなければならないシバリ(宿題?課題?)が増えれば、楽な方を選びたくなる。だいたい高校卒業時ぐらいまで、こんな宿題、課題が課せられる。
評価されることによって嫌になることはある
もう1つの原因として考えられるのは、「下手だから、上手くないからきらい」というものだ。
さて、「下手」「上手くない」と思ってしまうのはなぜだろうか?「手で字を書くのがきらい」というものの大部分はここに起因すると思われる。じゃあ、「下手」「上手くない」と思う原因を突きとめて、それを排除すれば、「手で字を書くのがきらい」と思わなくてすむのでは?
結論から言えば、そう思わせているのは「教育」だ。標準的な字の形というものがあり、それに似せるように手で書かせる。ちょっとでもそこからずれると直させる。標準的な形を(お手本)を見せて何度も真似させる。こんな訓練が小学校低学年から延々と6〜7年間続けられれば、標準的な形を形作る根気の無い児童は嫌になるに決まっている。その教育の「積み重ね」を無視して、「字を書くのがきらい」という人にはどうするの?と言われても、「いや、きらいにさせない教育をしてから言って欲しい。」と反論したい。
そもそも、学校教育において、フィジカル(身体)を使って表現するものに対して、標準的な形に強制する(矯正する)必要は、現代の日本において必要なのかどうかを問い返してみると、ほとんど必要なくなっている。
歌、声、踊り、絵等、「個性」を発揮し、「どう工夫すれば今よりも(自分が)満足いくものに改善できるのか?」ということを考えさせる教育に移っている。
「字」にも個性を見出せる時代
「字」に関しても同じではないか?一昔前、手で字を書くしか無い時代は、「誰もが間違いなく読める字」に矯正されていたわけだが、どうせ歳を取るにつれて手で字を書かなくなるのだから、そんな技術は必要なくなる。矯正されなければ(強制されなければ)、きらいにならない(はず)。
「ヘタウマ」という価値が生まれた現代日本は、個性そのままに価値を見いだす文化が生まれていると言える。だから、「下手」とか「上手い」なんていうのに決まった基準が無くなってきている。そんなことを踏まえた教育をすれば、「字を書くのがきらい」となる児童生徒はかなり減る。結局は価値観の問題なのだ。昔の価値観に囚われた教育を矯正すれば、嫌いな人はどんどん増えていく。「字なんて読めればいいじゃん?」というスタンスで教育すれば、「好き」「嫌い」も減っていき、手で字を書く経験も多くなる(と思われる)。
大体人間の識字センサーはかなり高い。高校国語教師だった私は、何千人もの文字を見てきた。本当に識別できない字というものはほとんどなかった。でも、当時は「丁寧に書こうね」と指導していた。「読めりゃいいじゃん」というスタンスを取るならば、「丁寧に書こうね」じゃ無くて、「書き殴ったら、読む人は、書いてある内容をざわざわしながら受けとるよ。」という指導が良かったのだと思う。
好き嫌いは「慣れ」で変化する
つまり何が言いたいのかというと、「好き」「嫌い」でものの価値は計れないということだ。「好き」「嫌い」は、それまでの経験で価値観の押しつけがあり、そう「思わされている」可能性がある。また、「好き」「嫌い」は、慣れによって変化するものだ。
私は昔自分の声が嫌いだった。50〜60歳ぐらいの人は、小さい頃、他人が聞いている自分の生の声というものを聞く機会が今の人に比べてなかった。ホームビデオカメラなんて無かったし、スマホも無いから、自分の声を録音して、それを聞くなんてことは、カセットテープレコーダーを手に入れてからだろう。私は小学6年生のクリスマスプレゼントで手に入れた。
そして驚く。「自分はこんな変な声だったのか。」と。恥ずかしい気持ちでいっぱいになる。え?あの嫌いなやつの声に似ているじゃん。かといって、寡黙になったかというとそういうわけではなく、喋り続けた。喋るときは「自分の本当の声」は聞かなくていいから。
ところが、自分の授業をビデオに撮って、見返したりする経験を積んでいくと、それほど嫌でも無くなってくる。「慣れ」である。「お前の声はこうだから、こういう風に直しなさい。」と言われることもなく生き続けていけば、それほど嫌でも無くなってくる。
長男が小さい頃、字を矯正しようとして厳しく指導したことがある。「そんな気合いの入っていない字じゃ、自分の頭に入らないよ。」とか、いい加減な指導をしていた。今となっては反省しきりなのだが、その当時の字を今見ると、昔の長男を思い出して、心が温かくなる。好きな字体だ。好き嫌いなんて、そんなものだ。
Comments